何事も基礎が大事だと言いますね?
でも、基礎はしばしば、なおざりにされると言いません?
なら、新年早々、ひとつ、基礎について、考えてみましょうか。
何の基礎について考えます?
医学の基礎?
医学の基礎というと、たとえば、健康と病気、それぞれの定義、とかですか?
いや、だって、仮にですよ、健康と病気の定義がそれぞれ、おかしかったら、どうなります?
治療の目的が、おかしくなるじゃ、あ〜りませんか。
それって、とても、こわいことじゃありません?
では、今回は、健康と病気、それぞれの定義について考えてみるということで。
じゃあ、ちょっと、しばらくの間、心を真っ白にしてみてくれますか。心を真っ白したその状態で、健康と病気という言葉それぞれがもつ語感を、確認してみてくれますか。
自分の胸に手を置いて、心の底から聞こえてくる声に、ようく耳を澄ませてみてくださいよ。健康とか病気とかいう言葉を口にするとき、心の底からいったい何が聞こえてくるか。
みなさん、いま神頼みしているものと想像してみてください。今年一年、健康でいられますように、とか、健康になりますように、とか、って。
切実に健康を願っているそのとき、健康というその言葉は、みなさんの心にとって、何を表現するものですか?
苦しんでいないということを表現するものではありませんか。
いっぽう、病気という言葉はどうですか。
病気になりませんように、とか、病気が治りますようにとかと切実に願っているそのとき、病気というその言葉は、みなさんの心にとって、苦しんでいるということと、その苦しみが自分には手に負えないということを、表現するものではありませんか。
いまみなさん、自分の胸に手をおいて、心の底から聞こえてくる切実な声に耳を澄ませてくれましたね? で、何がわかったか。
ふだんみなさんが、やれ健康だ、やれ病気だ、としきりに言うことによって、争点にしているのは実は、苦しくないか、苦しいか、じゃないか、ということですよね。
もし、実際、そういうことなら、どうなります?
みなさんは心の底では、治療というものに、苦しまないで居てられるようになることを目的とするものであってほしがっている、ということになりませんか。
だけど、医学は、健康を正常であること、病気を異常であることと、定義づけてやってきました。やれ健康だ、やれ病気だとしきりに言うことで、医学が争点にしてきたのは、あくまでも、正常か異常か、でした。
そして医学は、治療とは、診察で見つかった異常を無くすこと、としてきました、ね? 診察で見つかった異常を無くすためには、治療に伴う苦しさ(副作用、毒性、副反応)は、よっぽど重篤なもの以外は我慢して当然、といった感じでやってきました、ね?
こうして、自分の胸に手をおき、心の底から聞こえてくる切実な声に耳を澄ませてきたみなさんは、つぎの疑問に真っ向からぶつかることになったわけです。
- ①医学は、なぜ、みなさんの心の底の切実な声にもとづいて、健康や病気を定義づけなかったのか。
- ②健康を正常であること、病気を異常であることと定義づけるというが、そもそも、正常とか異常とかいう言葉の意味は何なのか。
2021年2月27日に文章を一部修正しました。