精神科を訪れた女性が「ブス、ブスという声が聞こえてきて、うるさくて堪らないので、整形手術をしてほしい」と言うことで、訴え、要望しているのは何か(1/2)

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 みなさんがおそるおそる、精神科を初めて訪れ、診察室でこう言ったと仮定してみましょうか。


「ブス、ブスという声が聞こえてきて、うるさくて堪らないので、整形手術をしてほしい!」って。


 そのとき、そう言うことでみなさんは、目のまえに座っている精神科医に、何を訴え、何を要望しているわけでしょうか?


 みなさんはそのとき、自分の身に「異常が起こっていると訴え、自分を「正常にしてほしいと要望しているわけでしょうか。


 でも、ほんとうに、みなさんがそのとき訴え、要望しているのはそうしたことでしょうか? 「ブス、ブスという声が聞こえてきて、うるさくて堪らないので、整形手術をしてほしい」と言うことで、そのときみなさんがほんとうに訴えているのは単に、苦しい、ということではないでしょうか。その苦しさが手に負えないということではないでしょうか。そして、苦しまないで居てられるようにしてほしいと要望しているだけなのではないでしょうか。


 勇気をふりしぼって初めて訪れた精神科で、精神科医をまえに、みなさんが争点にしているのは、あくまで「苦しくないか苦しいか」であって、「正常か、異常か」ではないのではないでしょうか。


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理解不可能な人間など存在し得ないことを確認する(2/2)

 医学は健康を正常であること病気を異常であることと独自に定義づけてやってきたということでしたよね。で、その正常、異常という言葉の意味は、それぞれこういうことであるとのことでしたね。


 ひとを正常と判定するというのは、

  1. そのひとのことを、こちらがもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していると見、
  2. その「イメージに合致している」ことを問題無しとすること。


 いっぽう、ひとを異常と判定するというのは、

  1. そのひとのことを、こちらのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見、
  2. その「イメージに合致していない」ことを問題視すること、

 である、って。


 いま、ある高校生が、こう訴えたとしますよ。家の自室で勉強していても、同級生たちが「うぜえ」とか「死んじまえ」とか言ってきて、勉強にならない、って。道で通りすがりに、知らないひとが「うざいぞ」「このバカ」と僕に言ってくる、って。

 

★★その高校生の訴えについては下の記事で「実地」に考察しました(参考記事)★★

 

(精神)医学は、その高校生のありようを、統合失調症という異常であると診断します。もっと詳しく言うと、そのように声が聞こえるとする高校生のありようを、幻聴という異常であるとします。それは、いま復習しましたように、その高校生のありようを、医学のもっている「ひととはコレコレこういうものだというイメージに合致していないと見、その「イメージに合致していない」ことを問題視するということですね。


 では、そのように、ひとの実際のありようが、こちらのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見えたとき、そのことをふだんみなさんは他にどんな言い回しで表現するか、ひとつ考えてみてくれますか。


 そのように、ひとの実際のありようが、こちらのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見えたとき、そのことを、ふだんのみなさんは、眉をしかめながら、こう平たく表現するのではありませんか。


 そのひとのことが理解できない、って。


 だとすると、こう言えませんか。


 ひとを「異常」と判定するというのは、そのひとのことを「理解不可能」と認定することである、って。


 だけどもし、その高校生が後でこう打ち明けてきたら、どうですか。実は、そんな声は聞こえなかったんだ。でも、声が聞こえると言えば、みんなが心配してくれるかと思ったんだ、って。


 すると、みなさんは、ぽんと膝を打つのではないでしょうか。そうか、寂しかったんだな、とか言って。


 その高校生のありようが、一転、みなさんのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致するようになったわけですね? で、みなさんは、その「イメージに合致している」ことを問題無しとできるようになったわけですね。


 つまり、その高校生のありようを正常と判定することができるようになったわけですね。


 さあ、ここでも、先ほど同様、ひとつ考えてもらいましょう。その高校生のありようが、みなさんのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに一転して合致するようになったそのことを、ふだんのみなさんなら、いったいどんな平たい表現で言い表しますか


 ふだんのみなさんなら、その高校生のありようが、イメージに合致するようになったそのことを、晴れ晴れとした顔つきで、こう表現するのではありませんか。


 その高校生のことが、理解できるようになった、って。


 つまり、その高校生のことを「正常」と判定するというのは、その高校生のことを「理解可能」と認定するということではありませんか。


 いま、つぎのことを確認しました。

  • A.ひとを「正常」と判定するのは、そのひとのことを「理解可能」と認定するということ
  • B.ひとを「異常」と判定するのは、そのひとのことを「理解不可能」と認定するということ。


 そしてここで、前回確認したことを思い出してみることにしますね。


異常なひとなどこの世にただのひとりたりとも存在し得ない」ということでしたよね。


 つまり、「ひとはみな正常」なんだ、って。


 なら、いまのAとBのふたつをそこにそれぞれ代入すれば、こういうことになるのではありませんか。


理解不可能なひとなどこの世にただのひとりたりとも存在し得ない


 言うなればひとはみな、「理解可能」である。


1/2に戻る←) (了)         

 

 

はぁぁ? 「理解不可能」なひとなどただのひとりもこの世に存在し得ない、だって? いやあ、そんなの理屈上の戯言にすぎないよ、まったくお前さん青臭いな、と思うひともいるかもしれませんね。そこで、統合失調症と診断され、医学に「理解不可能」と決めつけられてきたひとたちの事例をとり挙げ、そのひとたちがほんとうは理解可能であることを現在実地に確認しています



 

 

理解不可能な人間など存在し得ないことを確認する(1/2)

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 前回、異常なひとなどただのひとりもこの世に存在し得ない、ということを確認しましたよね。

 

★★その回はこちら(参考記事)★★

 

 それは同時に、こういうことを意味します。


 この世に、「理解不可能なひとなどただのひとりも存在し得ない、って。


 でも医学は、この世に「理解不可能なひと」が存在するということにしてやってきました。たとえば、統合失調症と診断されてきたひとたちはどうですか。やれ、「人間の知恵をもってしては永久に解くことのできぬ謎だ」「了解不能」だと言われてきたのではありませんか。

かつてクルト・コレは、精神分裂病〔引用者注:当時、統合失調症はそう呼ばれていました〕「デルフォイの神託」にたとえた。私にとっても、分裂病は人間の知恵をもってしては永久に説くことのできぬ謎であるような気がする。(略)私たちが生を生として肯定する立場を捨てることができない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか(木村敏『異常の構造』講談社現代新書、1973年、p.182、ただしゴシック化は引用者による)。

異常の構造 (講談社現代新書)

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  • 作者:木村 敏
  • 発売日: 1973/09/20
  • メディア: 新書
 

 

 専門家であっても、彼らの体験を共有することは、しばしば困難である。ただ「了解不能」で済ませてしまうこともある。いや、「了解不能であることがこの病気の特質だとされてきたのである。何という悲劇だろう(岡田尊司『統合失調症、その新たなる真実』PHP新書、2010年、pp.29-30、ただしゴシック化は引用者による)。

統合失調症 その新たなる真実 (PHP新書)

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  • 作者:岡田尊司
  • 発売日: 2011/12/09
  • メディア: Kindle版
 


 だけど、統合失調症と診断されてきたひとたちは決して、「人間の知恵をもってしては永久に解くことのできぬ謎」でもなければ、「了解不能」でもありません。いま冒頭でいきなり言いましたように、「異常なひとなどただのひとりもこの世に存在し得ない」という前回確認したことから自動的に、「理解不可能なひと」などただのひとりもこの世に存在し得ないということが導き出されます。


 どういうことか。


 今回はそのことを見ていきます。


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ひとを異常と診断することが差別である理由(2/2)

 では、はじめます。


 たとえば、ある高校生が、こう訴えたとしましょうか。家の自室で勉強していても、同級生たちが「うぜえ」とか「死んじまえ」とか言ってきて、勉強にならない、って。道で通りすがりに、知らないひとが「うざいぞ」「このバカ」と僕に言ってくる、って。


(精神)医学は、こうした高校生のありようを、異常(幻聴)と診断し、統合失調症と名づけますね? それはまさに、いま言いましたように、その高校生のありようを、医学がもっている「ひととはコレコレこういうものだというイメージに合致していないと見、その「イメージに合致していない」ことを問題視することですね?


 だけど、その高校生のありようが、こちらのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見えたそのときほんとうにしなければならないのは、果してそのように異常と判定することなのでしょうか


 ようく考えてみてくださいよ。


 その高校生のありようが、こちらのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見えるということは何を意味しますか?


 それは、こちらのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージが未熟であるということを意味するのではありませんか?


 その高校生のありようが、こちらのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見えたそのとき、ほんとうに為すべきなのは、その高校生のありようを異常と判定することなんかでは決してなく、むしろ反対に、こちらのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というそのイメージをその高校生のありようとも合致するものとなるよう豊かにする(修正する)ことなのではありませんか。


 そのようにして、こちらのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージを豊かにする(修正する)ことこそ、学習、なのではありませんか。


 そのようにして、その高校生のありようを正常と見られるようになることこそ学習であり、(こちらの)成長なのではありませんか。


 いま、統合失調症(幻聴)という異常と判定されてきたその高校生のありようが、実は正常であることが論理的に確認できました。


〈参考:そのことを「実地」にも確認しました。〉


 これまで異常と判定されてきた他のひとたちにも、いまのとまったくおなじことが言えますね。したがって、この世に異常なひとなどただのひとりたりとも存在し得ないということになりますね。


 言うなれば、ひとはみな正常なんだ、って。


 なのに医学は一部のひとたちを不当にも異常と決めつけ差別してきたんだ、って。


 冒頭でもくり返しましたように、医学は健康を正常であること、病気を異常であることと独自に定義づけてきました。だけど、それが不適切だったことが、(不当な)差別であったことが、いま、明らかになりましたね。


1/2に戻る←) (了)         

 

 

だとすると、いったい誰が、不当にも異常と決めつけられ、差別されてきたんでしょうね? そのことについては、後日、書くつもりです。書いたら、ここにURLを挙げますね。


2021年3月28日に文章を一部修正しました。

 

ひとを異常と診断することが差別である理由(1/2)

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 早速、正常、異常という言葉の意味を確認した前回のつづきを話させてもらいますね。


〈参考:その「前回」はこちら〉


 ふだんみなさんが、やれ健康だ、やれ病気だとしきりに言うことで争点にするのは、「苦しくないか苦しいか」、である。だけど、医学が、やれ健康だ、やれ病気だとしきりに言って争点にしてきたのは、それとはまったく別のことだった。すなわち、正常か異常か、だった。(身体をあやまって機械と見なす)医学は(苦しいとか苦しくないとかいうのが何であるか理解できず)、健康を正常であること病気を異常であることと独自に定義づけてやってきたんだ、ということでしたね。


 では、そのように医学が、健康、病気をそれぞれ独自に定義づけるさいに用いてきた、正常、異常、という言葉の意味は何なのか、というと、こういうことでした。


 ひとを正常と判定するというのは、

  1. そのひとのことを、こちらがもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していると見、
  2. その「イメージに合致している」ことを問題無しとすること。


 いっぽう、ひとを異常と判定するというのは、

  1. そのひとのことを、こちらがもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見、
  2. その「イメージに合致していない」ことを問題視すること、


 である、ということでしたね。


 ところが、このように正常、異常という言葉の意味をひと度、確認してみると、「異常な人間などこの世にただのひとりも存在し得ないということが即座に明らかになってくるということでした。


 どういうことか。


 今回は、そのことを確認します。


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