前回、異常なひとなど、ただのひとりも、この世に存在し得ない、ということを確認しましたよね。
★★その回はこちら(参考記事)★★
それは同時に、こういうことを意味します。
この世に、「理解不可能なひと」など、ただのひとりも存在し得ない、って。
でも医学は、この世に「理解不可能なひと」が存在するということにしてやってきました。たとえば、統合失調症と診断されてきたひとたちはどうですか。やれ、「人間の知恵をもってしては永久に解くことのできぬ謎だ」「了解不能」だと言われてきたのではありませんか。
かつてクルト・コレは、精神分裂病〔引用者注:当時、統合失調症はそう呼ばれていました〕「デルフォイの神託」にたとえた。私にとっても、分裂病は人間の知恵をもってしては永久に説くことのできぬ謎であるような気がする。(略)私たちが生を生として肯定する立場を捨てることができない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか(木村敏『異常の構造』講談社現代新書、1973年、p.182、ただしゴシック化は引用者による)。
専門家であっても、彼らの体験を共有することは、しばしば困難である。ただ「了解不能」で済ませてしまうこともある。いや、「了解不能」であることが、この病気の特質だとされてきたのである。何という悲劇だろう(岡田尊司『統合失調症、その新たなる真実』PHP新書、2010年、pp.29-30、ただしゴシック化は引用者による)。
だけど、統合失調症と診断されてきたひとたちは決して、「人間の知恵をもってしては永久に解くことのできぬ謎」でもなければ、「了解不能」でもありません。いま冒頭でいきなり言いましたように、「異常なひとなどただのひとりもこの世に存在し得ない」という前回確認したことから自動的に、「理解不可能なひと」などただのひとりもこの世に存在し得ないということが導き出されます。
どういうことか。
今回はそのことを見ていきます。