ひとを異常と診断することが差別である理由(2/2)

 では、はじめます。


 たとえば、ある高校生が、こう訴えたとしましょうか。家の自室で勉強していても、同級生たちが「うぜえ」とか「死んじまえ」とか言ってきて、勉強にならない、って。道で通りすがりに、知らないひとが「うざいぞ」「このバカ」と僕に言ってくる、って。


(精神)医学は、こうした高校生のありようを、異常(幻聴)と診断し、統合失調症と名づけますね? それはまさに、いま言いましたように、その高校生のありようを、医学がもっている「ひととはコレコレこういうものだというイメージに合致していないと見、その「イメージに合致していない」ことを問題視することですね?


 だけど、その高校生のありようが、こちらのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見えたそのときほんとうにしなければならないのは、果してそのように異常と判定することなのでしょうか


 ようく考えてみてくださいよ。


 その高校生のありようが、こちらのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見えるということは何を意味しますか?


 それは、こちらのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージが未熟であるということを意味するのではありませんか?


 その高校生のありようが、こちらのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見えたそのとき、ほんとうに為すべきなのは、その高校生のありようを異常と判定することなんかでは決してなく、むしろ反対に、こちらのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というそのイメージをその高校生のありようとも合致するものとなるよう豊かにする(修正する)ことなのではありませんか。


 そのようにして、こちらのもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージを豊かにする(修正する)ことこそ、学習、なのではありませんか。


 そのようにして、その高校生のありようを正常と見られるようになることこそ学習であり、(こちらの)成長なのではありませんか。


 いま、統合失調症(幻聴)という異常と判定されてきたその高校生のありようが、実は正常であることが論理的に確認できました。


〈参考:そのことを「実地」にも確認しました。〉


 これまで異常と判定されてきた他のひとたちにも、いまのとまったくおなじことが言えますね。したがって、この世に異常なひとなどただのひとりたりとも存在し得ないということになりますね。


 言うなれば、ひとはみな正常なんだ、って。


 なのに医学は一部のひとたちを不当にも異常と決めつけ差別してきたんだ、って。


 冒頭でもくり返しましたように、医学は健康を正常であること、病気を異常であることと独自に定義づけてきました。だけど、それが不適切だったことが、(不当な)差別であったことが、いま、明らかになりましたね。


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だとすると、いったい誰が、不当にも異常と決めつけられ、差別されてきたんでしょうね? そのことについては、後日、書くつもりです。書いたら、ここにURLを挙げますね。


2021年3月28日に文章を一部修正しました。